1958年3月12日生まれの犬年のうお座。 出生地は大阪、阿倍野の赤十字病院。 育っ たのは兵庫県の尼崎市で、18歳で県立尼崎北高校を卒業後、北海道で酪農家に成 る事に憧れ一浪の末、北海道江別市の酪農学園大学に入学。 しかし、父親の商売 にかげりが見え始め結局、北海道で過ごすバラ色の学園生活の夢は一転して、奨学 金とアルバイト代で過ごす、ストーブさえ買えない、貧乏を絵に描いたような4年 間になってしまいました。 我が酪農学園大学には、2回生の年に夏休みをつぶして、酪農家の家に20日間以上住み込みで委託実習に入らなければ、進級させてもらえないという非常にユニークな必修科目がありました。 そして2回生の夏休み、高 さ33mのサイロに登っても見える家は3軒というやたら広大な、尚且つ絶対に逃げ 出せない!牧場で過ごした1ヶ月は、甘い学生の夢などアッという間に吹き飛ばし ました。 失意の中迎えた秋、とぼとぼとキャンバスの中を歩いていた時(実際はキャンバ スなど呼べる代物ではなく、当時の酪農学園は、農場と小屋の集合体のようでした 。)目に入ったのが肉製品製造学実習室というやたらボロイ 小屋。(現在はとてもりっぱになってますので誤解のないよう)。 転身の早い私は 、そんな訳で次の瞬間には「そうか!俺は本当はハム屋に成る為にこの大学にきたんだ」と思ってしまったのです。 その後は、大学で2年、静岡で1年半、札幌で5年間ハム作りの辛くて過酷な、思 い出すだけで恐ろしい!? 修行時代を経て昭和63年、この地に歩人を開業した訳です。 ところが・・・十勝岳がすぐに爆発!歩人の前の道は通行止め。 夜中に製造した品物をリックに積め、始発のバスで旭川へ売りに行くという行商で食いつなぎながら通行止め解除を待ち、その後も事故で背骨は折るは、雷は落ちるわで、谷 あり谷ありの我が人生、根っからの楽天家の女房に支えられ現在にいたっております。 よくまぁーここまで生き残ってきたと思います。 写真は、平成13年度まで会長をしていた「北海道食肉加工技術研究会=通称ハム研」で道内のプロのハム屋さんを招いてドイツ人マイスターと行った研修会の一こま 中央でドイツ人と肩を組んでいるのが私です。 共同研究著書::血液タンパク質の食品への利用に関する研究 ★ ★ |